フィルムを手に取って見つめる小津安二郎(1953年)

小津安二郎 ― 松阪で青春を過ごした映画監督

『東京物語』などで知られる映画監督・小津安二郎(1903-1963)は、9歳から19歳までの10年間を松阪で過ごしました。愛宕町の映画館・神楽座で映画に出会い、飯高町の小学校で代用教員をつとめたあと、松竹へ入社するために松阪を離れています。

小津安二郎は、黒澤明・溝口健二と並ぶ日本映画の巨匠として世界的に知られています。生まれは東京市深川区(現・東京都江東区)ですが、小津家はもともと松阪商人の家系でした。江戸時代から分家として深川で肥料問屋「湯浅屋」を営み、父の寅之助はその支配人をつとめた人です。

一家が松阪へ移り住んだのは1913年(大正2年)3月。安二郎はここから、映画を志すまでの青春期を松阪で送ることになります。

松阪へ来た少年時代

転居先は飯南郡神戸村垣鼻、いまの松阪市愛宕町三丁目にあたる場所です。父の寅之助は仕事のある深川に残り、母と子どもたちだけの松阪暮らしでした。

安二郎は松阪町立第二尋常小学校(現・第二小学校)の4年に編入します。当時の担任によれば、成績優秀で絵を描くのも好きな少年でした。松阪天神(菅相寺)、愛宕山龍泉寺、金剛川のあたりが遊び場だったと伝わります。

1916年(大正5年)には三重県立第四中学校(のちの宇治山田中学校、現・宇治山田高校)へ進み、寄宿舎に入りました。

神楽座で映画に出会う

自宅から400メートルほどのところに、神楽座という芝居小屋がありました。のちに映画の上映専門館となるこの小屋が、小津にとって映画への入口になります。

小学生のころは「目玉の松ちゃん」と呼ばれた歌舞伎役者・尾上松之助の時代劇に、やがて『クォ・ヴァディス』『ポンペイ最後の日』といった外国映画の大作にひかれていきました。校紀の厳しい中学の寄宿舎では映画館へ行くことが許されませんでしたが、1920年(大正9年)に寄宿舎を出て松阪から通学するようになると、映画への傾斜はさらに強まります。

後年、小津は松阪を訪れたときに脚本家の野田高梧へこう話したと伝わります。

もし、この小屋がなかったら、僕は映画監督になってなかったと思うんですよ
小津安二郎(1951年・松阪にて)

神楽座は1921年(大正10年)に映画上映専門館となり、1936年(昭和11年)には改装して松竹・日活・東宝の作品を上映しました。1951年(昭和26年)の松阪大火で焼失し、そのまま再興されずに閉館しています。

「オーヅ先生」だった1年

1921年(大正10年)に宇治山田中学校を卒業した安二郎は、進学のための受験に失敗します。翌1922年(大正11年)、19歳で飯南郡宮前村の宮前尋常高等小学校(現・宮前小学校)へ代用教員として赴任しました。1年限りの約束で、5年生の担任です。

教え子たちは彼を「オーヅ先生」と呼びました。「いつも羽織袴に下駄ばきやった」「花岡神社で相撲をとった」「局ヶ岳へ下駄で登った」「橋の上から麦藁帽子を投げた」といった証言が残っています。

1923年(大正12年)3月、卒業式を終えると安二郎は東京へ戻り、同年8月に松竹キネマ蒲田撮影所へ撮影部助手として入社しました。父の反対もありましたが、母方の親戚が松竹に土地を貸していた縁もあって映画会社入りを果たします。松阪で過ごした10年間は、ここで終わりました。

監督としての小津安二郎

1936年に撮影された日本映画監督協会の集合写真。和服姿の映画監督たちが3列に並んでいる
日本映画監督協会が発足した1936年(昭和11年)の集合写真。小津安二郎のほか、溝口健二、成瀬巳喜男、山中貞雄ら18人の監督が写っています。日本映画監督協会(1936年)/パブリックドメイン

松竹へ入った小津は、1927年(昭和2年)に監督へ昇進し、第1作『懺悔の刃』を発表します。1933年(昭和8年)には、前年に封切られた『生れてはみたけれど』が「キネマ旬報」1932年度のベスト・ワンに選ばれました。1937年(昭和12年)には応召し、中国各地を転戦しています。

敷布団の上にあぐらをかき、小さな紙にペンを走らせる小津安二郎。傍らに薬缶と積み上げた本がある
1948年(昭和23年)、グラフ誌に載った小津安二郎。朝日新聞社『アサヒグラフ』1948年7月7日号/パブリックドメイン

戦後は1953年(昭和28年)に代表作『東京物語』を撮影しました。1959年(昭和34年)には映画人として初めて芸術院賞を受け、1962年(昭和37年)には映画界で初めて芸術院会員に選ばれています。同年の『秋刀魚の味』が最後の作品となりました。

1963年(昭和38年)12月12日、60歳で亡くなります。誕生日と命日が同じ12月12日でした。

『東京物語』のロケ現場。手前に立つ原節子と撮影スタッフ、柵の向こうに大勢の見物人が集まっている
1953年(昭和28年)『東京物語』のロケ現場。手前左が原節子、右端が小津安二郎。撮影者不明(1953年)/パブリックドメイン

作品

記念館には「小津安二郎 作品<抜粋>」という展示パネルがあり、封切年と「キネマ旬報」ベストテンの順位が作品ごとに並んでいます。ベスト・ワンに選ばれたのは6作品。 うち『生れてはみたけれど』『出来ごころ』『浮草物語』は3年続けての1位です。世界的に知られる『東京物語』は2位でした。

データ表
封切年題名キネマ旬報ベストテン
1930年(昭和5年)お嬢さん2位
1931年(昭和6年)東京の合唱3位
1932年(昭和7年)生れてはみたけれど1位
1932年(昭和7年)また逢ふ日まで7位
1933年(昭和8年)出来ごころ1位
1934年(昭和9年)浮草物語1位
1935年(昭和10年)東京の宿9位
1936年(昭和11年)一人息子4位
1937年(昭和12年)淑女は何を忘れたか8位
1941年(昭和16年)戸田家の兄妹1位
1942年(昭和17年)父ありき2位
1947年(昭和22年)長屋紳士録4位
1948年(昭和23年)風の中の牝鶏7位
1949年(昭和24年)晩春1位
1950年(昭和25年)宗方姉妹7位
1951年(昭和26年)麦秋1位
1952年(昭和27年)お茶漬の味
1953年(昭和28年)東京物語2位
1956年(昭和31年)早春6位
1957年(昭和32年)東京暮色
1958年(昭和33年)彼岸花3位
1959年(昭和34年)お早よう
1959年(昭和34年)浮草
1960年(昭和35年)秋日和5位
1961年(昭和36年)小早川家の秋
1962年(昭和37年)秋刀魚の味8位

小津安二郎松阪記念館の展示パネル「小津安二郎 作品<抜粋>」に載っている26作品です。パネルは<抜粋>なので、小津のすべての監督作ではありません。順位の空欄は、パネルに記載がないことを表します。

松阪を舞台にした小津映画は残らなかった

小津は三重県内でも撮影をしていますが、それは1959年(昭和34年)の『浮草』を志摩でロケしたときだけです。松阪を舞台にした小津映画は実現しませんでした。 一方で、題名に「東京」を含む作品は『東京の合唱』『東京の宿』『東京の女』『東京物語』『東京暮色』の5本があります。

年譜

  1. 1903年(明治36年)12月12日、東京市深川区に生まれる
  2. 1913年(大正2年)一家で三重県飯南郡神戸村へ転居。松阪町立第二尋常小学校4年に編入する
  3. 1916年(大正5年)三重県立第四中学校に入学し、寄宿舎に入る
  4. 1920年(大正9年)寄宿舎を出て、松阪から通学するようになる
  5. 1921年(大正10年)宇治山田中学校を卒業。進学のための受験に失敗する
  6. 1922年(大正11年)宮前尋常高等小学校の代用教員となり、5年生を担任する
  7. 1923年(大正12年)東京へ戻り、松竹キネマ蒲田撮影所に入社する
  8. 1927年(昭和2年)監督に昇進し、第1作『懺悔の刃』を発表する
  9. 1933年(昭和8年)「キネマ旬報」1932年度ベスト・ワンに選ばれる
  10. 1937年(昭和12年)応召し、中国各地を転戦する
  11. 1953年(昭和28年)『東京物語』を撮影する
  12. 1959年(昭和34年)映画人として初めて芸術院賞を受ける。『浮草』を撮影する
  13. 1962年(昭和37年)映画界で初めて芸術院会員に選ばれる。『秋刀魚の味』を撮影する
  14. 1963年(昭和38年)12月12日、60歳で亡くなる

松阪で小津安二郎をたどる

市内には小津安二郎ゆかりの場所が21か所あり、松阪市が地図付きで公開しています。少年時代に通った旧飯南郡図書館(現在の松阪市立歴史民俗資料館)には小津安二郎松阪記念館があり、日記や手紙、代用教員時代の資料を見られます。記念館を起点に、松阪公園(松坂城跡)、第二尋常小学校跡、神楽座跡、愛宕山龍泉寺、小津家の菩提寺である養泉寺をめぐって松阪駅へ戻るコースが、松阪市のリーフレットで案内されています。

代用教員時代を過ごした飯高町の宮前小学校跡には、小津安二郎資料室があります。教え子たちがつくった「飯高オーヅ会」が運営に携わる、全国で最初の顕彰施設です。敷地内には「小津安二郎先生敬慕之碑」も建っています。

公式の案内

関連する情報

掲載内容の訂正・更新・情報提供